小菅優ピアノリサイタル


日時 : 2017/03/04
場所 : ミューザ川崎
集客 : ほぼ満席
曲目 : ベートーヴェン/ピアノソナタ14番「月光」
    ベートーヴェン/ピアノソナタ21番「ワルトシュタイン」
    武満徹/雨の樹素描Ⅰ、Ⅱ
    リスト/エステ荘の噴水
    リスト/バラード第2番
    ワグナー、リスト編曲/イゾルデ愛の死
演奏: 小菅 優

[ミューザ川崎アフタヌーンコンサート]と名打ったコンサートシリーズで名のある音楽家の一流のホールでの演奏が3900円で楽しめるお値打ちのコンサートでそのせいか客席はほぼ満席でした。
この演奏者の海外での演奏会の評価を調べたところ、2012年にアメリカのジョージタウンでの演奏会で同じく「月光」を演奏した評価が見つかりました。( Washington post by November 25 2012 by Grace Jean)これによりますと
She showed restraint in a meditative, steady account of the opening movement, where the melody, delicately layered over glassy-smooth arpeggios, was conducive to the ballroom’s acoustics and cabaret-style setting. As much as she seemed to enjoy the lilting second movement, Kosuge dove into the finale’s fury without pause, reveling in the fiery accented chords and pushing the limits of her sonic boundaries.
と批評されておりました。「彼女はメロディーがなめらかで柔軟かつ繊細に重ねられた第一楽章の瞑想的で間断のない静寂な部分では抑制を見せ、キャバレースタイルにセッティングされた舞踏室に伝えられた。第二楽章では彼女はできるだけ多く軽快なリズムを楽しむと間断なく最後の風雲怒涛の中に飛び込み、火のように強調された和音で彼女の音楽的な境界を極限まで押し広げた。」となっています。(あれ、第三楽章は?)
今回の演奏会でも、このような第一楽章と第二楽章のコントラストは大いに感じました。特に「ワルトシュタイン」の3楽章目ではまさにまるでジェットコースターのような急スピードでの登り下りがあり、そのスピードと技術には弾き終わった後スタインウェイから湯気がたっているようで、この音量と技術には本当に圧倒され、まさにオリンピックの体操競技で超難度の技を次から次へと決めて、着地もビシリと決まって微塵も動かないアスリートという感じでした。しかしかながら、家に帰って、私のベートーベンピアノソナタのメートル原器ともいうべきケンプの演奏を聴いてみると、やはり全然違う。電車で見る車窓からの光景に「あそのこ田んぼの上にあぜ道があり、そのわきに花が咲いていて・・。」という解説をしているような演奏に思わず微笑んでしまいました。音の強弱と速度の有機的な変化でそういった表現する。確かにこれはケンプのベートゥーベンかも知れないけど、でもとてもよくわかる、コントラストなんて一言で言い表せないようなというかもっと深い表現力で、一音一音の意味もわかるし、音楽の楽しみや人生までも伝わってくるのです。この演奏者のピアノは確かに輝かしい明るいとても魅力的な音ではあるけれど、逆にこの音質が支配的すぎ、ワルトシュタインなんかではやや単調で、とても聴いていて楽しむところまではいきませんでした。むしろ良かったのはリストや武満でこのような小品では過度なルバートを使用しないので、曲がストレートにわかりやすく、明るい音色がとても魅力的でした。私が悩ましいのは、この曲は、この演奏だけというような、かつてのフルトブェングラーフリークのような演奏唯一論に陥ることなく柔軟な芸術評価聴衆でありたいのだけれど、過去の60年も前の演奏の残り香が自分に残っていて、新しい演奏の考え方に、ついて行ってないのかもしれない、と思う一方で、演奏には、自分の経験や知識にあった、嗜好があり、それに率直であることが、一番感受性の発揮できる方法かもしれないとも思うのです。

N響 マーラー交響曲第6番 イ短調「悲劇的」 


日時 : 2017/02/22
場所 : みなとみらいホール
集客 : ほぼ満席
曲目 : 武満徹/弦楽のためのレクイエム
    マーラー/交響曲 第6番 イ短調「悲劇的」
演奏:NHK交響楽団
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ

マーラーの音楽は熟成した赤ワインに似ていて、いくつかの音楽の要素が
うまく混ざり合ってとてもいい味わいをだしているといつも思っています。
だから、オーケストラの金管とか木管、弦、とかハープとか打楽器が次々と
現れては消えてゆく波のような響きが好きなのです。今回は、弦は対向配置で客席からみて
左手に第一バイオリン、右手に第二バイオリン、で左手の奥にコントラバス、右手の奥に
ビオラが並びます。加えて、チェレスタ、ハープ4台、ヘルデンクロッケンやら2台のティンパニ、4台のシンバルと
打楽器群も重装備です。
さて、曲が始まって、あれれ、何か音が薄い、弦が少し遠慮気味で室内楽のようです、
でも金管木管の音色はとても輝かしくて、深みがあって、美しい、
こんなん、日本で聴けるのだったら、別にウィーンやベルリンや、アムステルダムにい
かなくてもいいんじゃないのかな、と思えるほどの管楽器です。でも相変わらず弦はすこし小さめ、
第三楽章にはいってやっとすこしバランスがとれたかなあと思えるほどです。で、そのまま
第四楽章も同じようにつっきってフィナーレでした。

決して悪い演奏でないし、弦楽器の音も悪くないのだけれど、弦の音が少し小さめで、フォルテで
音が濁ってしまっていました。理由はいくつか考えられますが・・
1)席は3階席のうしろのほうで主に天井からの反射音が多く結果として金管木管の天井からの反射音が大きめであった。
2)マーラーは別に対位法でもないのに弦を対抗配置にしていたためハーモニーが犠牲になり音が小さく聞こえた。
3)そういう演出で室内楽的な音楽を創造したかった。
4)このホールはそういう音だった。

この問題は機会があれば、このオケを場所を変えてもう少し聞きながら(なぜかって、管楽器はとても魅力的)考えていきたいと思っています。

モーツァルト・フェライン 


日時 : 2017/02/11
場所 : 代官山教会
集客 : ほぼ満席
曲目 : Mozart
Kv372 B-dur 変ロ長調 1楽章のソナタ
    Kv396 C-moll ハ短調 幻想曲
    Kv403 C-dur ハ長調
    Kv404 C-dur ハ長調 アンダンテとアレグロット
F.Poulenc ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
    W.A.Mozart ヴァイオリンソナタ Kv481
M.Ravel ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
ヴァイオリン ジェラール・プーレ
ピアノ 川島余里

モーツァルト・フェライン主催のコンサートで断片の残っているモーツァルトソナタとフランスの作曲家によるヴァイオリンソナタの組み合わせ。
モーツァルトの断片のソナタは面白いというより、同じ音調のリズムが流れる音楽で、正直少々退屈でありました。モーツァルトが断片のままで残したのは、彼自身が、発表する価値のないものと判断したのではないかと思えるくらいの作品で、あまり音楽性が感じられませんでした。しかしながら、プーランクあたりから、流れが変わってきて、音楽の緊張感がでてきます。プーランクは最後はピストルの決闘という注釈がなくてもとても音楽的に優れた構成で感動しました。ラベルは色彩感が豊かで、第二楽章のジャズ的な(というよりほとんどジャズ)旋律がとても刺激的で、迫ってくるような第三楽章とともに感動が深かったのです。それはそうで、やはり近代にいたるにつれてピアノもヴァイオリンも改良がくわえられモーツァルトの頃のフォルテピアノの表現力よりはるかに豊かな表現力をもった楽器が登場し、それをいかした奏法を使った楽曲が表現力も豊富で音楽が大きく広がったという事なのでしょう。芸術はやはりその時代とともに有りです。


   

仲道郁代ピアノコンサート<マイ・フェイヴァリット>


日時 2016/12/3 13:30 開演
場所 みなとみらいホール大ホール
集客 90%くらい
曲目 グリーク抒情小曲集/
アリエッタ、蝶々、ノクターン
ジューマン/トロイメライ,
ショパン/ポロネーズ第一番、ポロネーズ第三番「軍隊」ポロネーズ第六番「英雄」ブラームス/3つの間奏曲、シューマン「献呈」リスト愛の夢第三番、メフィストワルツ第三番

デビュー30周年コンサートでグリーグの抒情小曲集やブラームスの間奏曲がプラグラムになっていたので聴きにいきました。<マイ・フェイヴァリット>と副題のついたピアノコンサート。



作曲家ごとの曲間に楽曲の解説や自分と曲とのかかわりを丁寧に演奏家自身が説明するので。彼女の曲に対する想いや、作曲家の考えや、そういった情報を前提に演奏を楽しむこともできるのですが、一方で、曲間の静けさが無く、私としては緊張感が途切れる気がして気になりました。また、演奏中はマイクのスイッチをきりピアノの上に置かれるのですが、ときどき共鳴するようでちりちりと音がでているようでした。このホールでは何回もピアノの演奏を聴いてきましたが、場所によってはピアノの音に響きがつきすぎて、まるで洞窟の中にいるような聞こえ方をする時があり、今回も前半のグリーク、ショパンあたりはボーボーと張りの無い中間音だけがお団子になって空間をただよい、エッジの利いたスタインウェイらしい音は全くでていませんでした。ところが15分の休憩後の後半になるとガラッと変身。霧が晴れたようにがぜんピアノの音が目覚め、冴えてきて初頭のブラームスはなかなかメリハリの利いた演奏、リストのメフィストワルツは鬼気迫る演奏で聴きごたえがありました。一体、休息中に何があったのでしょうか、ピアノを調律し直したのか、本人が異変に気付き弾き方を改善したのか、あるいは、ピアノが何曲か弾いているうちに鳴りだしたのか、理由はわかりません。いずれにしても、後半のほうが前半の百倍くらいいい演奏であった事は間違いないです。また、全体を見ると、曲の選び方といい、弾き方といい、演奏者のピアノをよく聞きにくるあまりマニアックでないクラシックファン向けに的を絞ったわかりやすい演奏でした。うがった見方をすればそういった限定された聴衆の嗜好に絞り込んだような演奏であったとも言えます。しかしながら全体的には演奏の傾向も曲目の選択も含めよく計算されプロデュースされた演奏会であると思いました。

ジョナサン・ノットのモーツァルト

コシ・ファン・トウッテ(演奏会形式)

日時:2016/12/9 開場17:45開演 18:30
場所:ミューザ川崎シンフォニーホール
出演者:フィオルテリージ:ヴィクトリア・カミンスカイデ
ミア・パーション)グリエルモ:マルクス・ウェルバ、フェルランド:アレック・シュナイダー(ショーン・マゼイ)ドラペッラ:マイテ・デーモン、デスピーナ:ヴァレンティナ・ファルカス
東京交響楽団 第一ヴァイオリン6、第二ヴァイオリン6、
ビオラ3、チェロ3、コントラバス2、オーボエクラリネット、フルート、ホルン、トランペット各2打楽器2の小編成の構成
指揮:ジョナサン・ノット
集客: 55%
曲目 第一幕 80分
休憩25分 第二幕 80分
終了は22時10分くらい
歌手はダブルキャストではないみたいで、12/1にフェルランド役のショーン・マゼイ氏が急遽体調不良でアレック・シュレイダー氏に変更、12/6(なんと3日前)にはフィオルディリージ役のミア・パーション氏が、急病のため、代わって、ヴィクトリヤ・カミンスカイテ氏が急きょ来日し、出演いたします。との手紙が届きました。すなわち主役と準主役が急遽入れ替わるという出来事があったわけです。当日は金曜日のこともありお客さんの入りも55〜60%くらいで、途中で正面の席に代わる人もいたくらいでした。
この演奏会場は何回も来ているのだけれど、3階席の端っこだと前の手すりが邪魔して、字幕が見れないということに気が付きました。少し後ろにさがるとこんどはバルコニーに舞台がかくれてしまい、歌手が見えません。この会場でオペラを聴くときは今後、正面の1Fか2Fの手すりから離れた場所がいいように思えました。
演出は演奏会形式で半円形の舞台の中央部に中州のように小編成のオーケストラが配置され大きな舞台周辺部を歌手や合唱が展開するというもので、指揮者はハンマーフリューゲルを弾きながら半円の中央で指揮をするというものでした。この演出のおもしろいところは、歌手は正面で歌唱するのではなく舞台の周りも歩き回ることで空間をより大きく立体的に見せることができるということです。ここの舞台は観客席からみわたせるようにすり鉢状になっているので、こうした演出はより効果的でした。
演奏は、は少人数にもかかわらず、厚みがあり、とてもテンポが良くスムーズで、かつ陰影も豊かで変幻自在でした。特に序曲のオーボエ木管は細かいニュアンスまで表情に富んでいて素晴らしかったです。このオペラは2重唄、3重唄の美しいアリアが多く含まれているのだけれど、フェルナンドを歌ったテノールのアレック・シュナイダーは、代役だったにもかかわらずとてもうまく歌われていたのに感心しました。
ところで、こうした、演奏会形式のオペラのメリットは何かというと、1、ミューザ川崎のようなワインヤード型の演奏会場ではオペラの舞台をつくると、舞台背面の客席が無用になってしまうが、今回のように小規模のオーケストラと合わせれば、舞台背面も客席として使えるし舞台上の空いたスペースに歌手が動き回り、演出の幅を大きくすることができる。2.オーケストラがにわか作りのオーケストラルピットに入り込まないので演奏の音が十分に観客席に届く、また歌手も歌に専念でき、しっかりとした歌唱を聞くことができる。3.大がかりな舞台道具や、舞台衣装も不要なので、コストダウンにつながる。また、舞台の準備も不要なので準備に時間がかからない。などがあり、今後も増えることが予想されます。まあ、オペラといえば豪華絢爛たる衣装で大規模なセットを期待しているファンにはもの足りないのだろうけど、純粋に音楽としてのオペラを楽しんでいる私は内心よろこんでおります。